星光館
星光館の四代目として60年もの間、旅館業に携わってきた。星光館は、明治初期に星さんの曽祖父母が始めた女川町初の旅館である。その後、星さんの祖母、母へと受け継がれ、星さん自身も幼いころから祖母や母の後ろ姿を間近で見て育った。
創業から一貫して、星光館は家族経営の宿だ。旅館の規模は、宿泊者数にして最大40名ほど。創業当初は、かつお船や捕鯨船などの漁師客で賑わいを見せ、昭和30年以降は、金華山の参拝ブームもあり観光客が増えた。どんな時代でも家庭的なサービスや雰囲気が自慢だった。要望があれば365日24時間対応する。宿泊客が仕事で帰りが1時、2時になる時も時間に関係なく夜ご飯を用意して待っていた。
サービス担当の星さん、料理担当の妻、そして子どもたち、家族経営だからこそ、サービスの規則なんてない。あるとすれば、宿泊客が必要とすること、喜んでくれる事は何でもやる、ということ。「私ね、お酒がダメなんです。だからお客さんのお酒の相手ができない。それだけが残念だったねえ」と、どこまでもサービス精神旺盛な星さんは、ちょっとくやしがる。でも話好きでいつもにこやかな彼は、そこにいるだけで周りを明るくする。宿泊客はそんな星さんを「じい」と呼ぶ。
そして星さんは、お客さんを迎えるときは「おかえんなさい」。送り出すときは「いってらっしゃい」と言うのがお決まり。星さんにとってはそれは特別なことではなく、当たり前のことだ。その理由を尋ねると星さんはたった一言で片づける。「人が好きなんだなあ」人が好きだから、人とどっぷりと関わり合える旅館業は星さんの天職だった。
東日本大震災が起きた3月11日、昭和14年に建て替えられた星光館は、まもなくリフォームを終えようとしていた。新しく購入した20数台のテレビも届いたばかり。「これでもっと気持ちよく泊まってもらえるなあ」と思っていた矢先のことだ。強い揺れを感じた後、星さんは気付いたら箱に入ったままのテレビが置かれた2階の部屋にいた。「旅館を守らなければ・・・!」無意識の行動だった。それでも、あまりの揺れの大きさに「日本が沈没する!」と危機感を感じ、外で茫然としていた妻を連れ出して高台へと避難した。幸い、家族もみな無事だった。
数日後、避難先の女川高校で、旅館が津波で流されたことを知らされる。「後片づけすればまた商売が続けられる」そう信じていただけに、現実を受け入れるのに時間がかかった。
震災前の星光館。ここで星さんは毎日暖かく宿泊客をお迎え、お見送りをしていた。
旅館が再開できるかもしれないと、再び希望を抱いたのは、旅館組合の寄合でのことだ。組合単位で国の補助金を受けることができるらしい。もちろん、再び事業を立て直すには星さん自身も大きな負債を負わなければならない。それでも、ただボーっと過ごして生きていくのは御免だ。星さんは、とにかく働くのが好きなのだ。「皆と一緒にやれるなら、頑張ってみよう」星さん78歳の前向きな決断だった。
星さんのこの粘り強さと明るさはどこに由来するのだろうか。
「やっぱり母親の存在じゃないかなあ。第二次世界大戦で父親が亡くなって母は女手一つで私たちを育て、家業を支えてきたんです。食べるものがない時は、やったこともない畑仕事にチャレンジすることもあった。頑張ってる後ろ姿をみてきたから、自然とこうなったんじゃないかな」そして女手一つで母が家業を営む時代から「うんと支えてもらった」という旅館組合の同業者の存在も大きかったという。母の記憶、ともに頑張ってきた同志に励まされ、再び大好きな旅館業で一歩を踏み出した星さん。新たなスタートに当たっての意気込みは?と聞くと、星さんはまるで気負いなどないというような軽やかさでこう言った。「前とおんなじ。全然変わらないね。家族みたいに「おかえんなさい」と、来てくれる人を迎えたいです」星光館の建物はなくなってしまったが、誰よりも元気な星さんの「おかえんなさい」と、星さん一家の笑顔は、以前と変わらずここにある。
津波逃れ残った数少ない、お母様である先代と明さんが一緒に移ったお写真。