女川町宿泊村協同組合福理事長/居住地:石巻市内の仮設住宅在住
母1人娘1人で営まれていた「にこにこ荘」に婿養子としてやってきた遠藤さんは、南極を含む世界68ヵ国を船で周った捕鯨船の元船乗りという異色の経歴の持ち主だ。海と船とクジラをこよなく愛し、定年後も後輩の育成に携わってきた。一見寡黙な印象だが、クジラを語らせたら、少年のようにきらきらと目を輝かせ、話題が尽きることはない。旅館の一角には彼が世界中から集めた品々を飾る小さなアトリエもあった。にこにこ荘は義理の母が65年前に創業した旅館。女川出身の義母が茨城で旅館を経営している伯母のもとで、幼い頃から経験を積み、まだ乳飲み子だった遠藤さんの妻を連れて帰郷。23歳という若さで小さな宿を始めた。
かつお船、捕鯨船、観光など宿泊客がどんどん訪れて宿は大盛況。宿泊の供給が追い付かないような状況で、「帯を解いて寝たこともなかった」というほど、義母は働き詰めの毎日だったという。平成に入る頃には、民宿ブームが起こり、役場の観光課などから進められ、民宿として再スタート。釣り目的の宿泊客などで賑わい、義母と妻、二人三脚での切り盛りが続く。つい3年ほど前に完全に引退するまでの間、船に乗らない時は遠藤さん自身も母や妻と共に宿泊客をもてなし、そして、遠く船の上からは、旅館のリフォームや駐車場の拡大などのため、資金面で旅館の経営を支えてきた。
長年旅館一筋だった義母は、東日本大震災の津波の犠牲になった。働き者の義母は、高齢のため横になることが多くなったものの、2011年当初は88歳を迎えてなお健在。「今年は米寿のお祝いでもしよう」と家族皆で話していたという。地震があったとの時、遠藤さんと妻が真っ先に考えたのは、高齢の母の安全確保だった。海岸から離れた親戚の家に母をすぐに連れていき、「ここなら津波はこないだろう」と、叔父に託した。遠藤さん自身は、片づけなどをしていた妻を迎えに一度自宅に戻る。そして、叔父の家に向かい再び車を走らせる最中、10メートルほど後ろから津波が追いかけるように迫るのが見えた。必死でスピードを上げると高台へ上る坂道が目に入り、なんとか逃げ切った。安堵もつかの間、旅館、そして叔父の家が流されたことを知る。義母も叔父も叔母も亡くなってしまった。「地震から津波が来るまでの45分、もっと何かできたのではないか・・・」遠藤さんは今もそう悔やむ。
震災前のにこにこ荘。震災を逃れ、唯一のこった写真。この写真以外はすべて津波によって流されてしまった。この建物の隣には、健一さんが世界中を旅して集めた船来品が飾られたアトリエがあった。
再び旅館を始めようと思ったのは、「生かされた人間としての使命だ」と遠藤さんは言う。「母は塩水を飲んで亡くなってしまった。女手一つで始めて、苦労しながらもやり続けてきた旅館をなくしてはならない。それが母への供養だと思っている。」遠藤さんの決断に妻も、息子も反対した。「無理をしなければ、船乗りでコツコツ貯めた蓄えと年金で暮らしていける。今から冒険する必要はあるのか?」「何もしないでただ生きてたらボケるだけだ。生きがいを持って、たまにバカでも言いながらみんなで力合わせて楽しくやったほうが人生得だべ」冗談を言いつつも、家族を説得した。「自分が命を終える時は、財産と共に消滅するような気持ちで、命がけでやるつもりだ。」穏やかにゆっくりと語る遠藤さんの心の奥底には、そんな強い思いがある。
震災の直後には、宿泊客に励まされることがいくつもあった。毎年のように泊まってくれていた高校の教師が、震災から1週間後、ガソリンをかき集めて届けてくれた。釣り目的で金沢からたびたび訪れていた男性は、遠路はるばる車で駆けつけ、女川の惨状を目にし、「遠藤さんたちをここに置いておけない。私の別荘があるから、今からそこに連れて行く」と説得してくれたという。かつての宿泊客は今も女川を訪れるたびに、にこにこ荘があった場所に先行をそなえてくれる。「本当にありがたかったね。そういう出来事も、俺たちをもう一度旅館業の道へ引き戻してくれたのかもしれない。」そんな風にしみじみ思ったという。「仲間とたまに冗談を言い合ってさ、またあの人たちを、明るく笑って迎えたいんです。」正直、期待だけではなく不安もある。それでも遠藤さんは長い航海に臨むように、心静かに一歩踏み出した。亡き母への思いを胸に、強い意志を「にこにこ」とした穏やかな笑顔で包み込みながら。