女川町宿泊村協同組合理事長/居住地:石巻市在住
被災地初のトレーラーハウス宿泊村「El faro」の若きリーダーであり、旅館「奈々美や」三代目 佐々木里子さんは、高校生から小学生まで4人の子供のお母さんでもある。
「奈々美や」は、米やを営んでいた彼女の祖父母が始めた旅館だ。はじめは小料理店からスタートしただけに料理が自慢の宿だった。女川の新鮮な食材を使ったお造りや煮魚・・・・・・、彼女の父と母が作り出す家庭料理のような温もりあふれる味わいを、心から楽しみに訪れる宿泊客が多かった。「学校から帰るとエプロンを着けてお手伝いするのが日課。旅館の仕事がね、大好きだったんですよ。」
里子さんは小学生の頃から看板娘として活躍した。当時、毎日20人ほどの宿泊客を迎えていたという奈々美や旅館。仕事でここを定宿として滞在する宿泊客は「いってらっしゃーい」と送り出してくれる里子さんを我が子のようにかわいがり、「家に帰ってきたみたいだ」とそのもてなしを喜んでくれた。「まるでお客さんみんなに育てられたみたいだった。」里子さんは宿泊客とのふれあいの中で、ますます旅館の仕事が好きになった。そんな彼女も結婚して女川を出ることになる。その時両親は、「里子が嫁いだから、奈々美やは自分たちで終わりだな」と話していたという。旅館の手伝いがしたいという思いを捨てきれない彼女に、「そんなに旅館が好きなら みんなで女川に戻ろう」と夫が提案。旅館業に引き戻されるように、9年ほど前から里子さんは父と母と共に家業を支えてきた。
地震が起きた後、里子さんは末息子を迎えにまずは保育所へ向かった。一度自宅に戻ると、母が通帳やデジカメ、毛布などあれもこれも用意して里子さんに渡し、「私たちは後から行くから、先に逃げろ」と促した。続いて小学校まで娘を迎えに行き、一度自宅に戻ろうと車を進めると、対向車から戻れと合図される。その後ろには津波が追いかけてきており、なんとか場所を探し出して必死で車をUターンさせた。車の中からたくさんの家が炎に包まれながら流されていくのが見えた。我が家も同様に。「ああ、もうダメなんだ。」そんな凄惨な光景の中に雪が降り注ぐ。その様子はあまりに静かで、彼女は自分でも驚くほど父と母の命が尽きたことをスッと冷静に受け入れた。その日の避難所で過ごした夜、寒さに震える里子さんたちは、母が持たせてくれた毛布に暖められる。
里子さんとご両親で暖かいサービスを提供した、奈々美や旅館の外観
一方、3人の子どもたちとは合流できたものの、高校生の息子の所在は不明のままだった。地震から5日目、突然避難所に息子が現れる。里子さんは緊張の糸が切れたように息子を抱き寄せて泣いた。その後、仙台の姉のところに身を寄せた里子さん一家。離れる時間が長くなればなるほど地元への思いは強くなっていき、3ヵ月間、学校まで往復3時間以上の距離を送り迎えした。その間、早くも女川町で住居を探し始め、震災からわずか10日ほどで家を見つけて購入、3ヶ月後には住み始める。「父と母の導きだと思った。」一時は廃業と思っていた旅館業だったが、「奈々美やを消したくない」という思いが日に日に強くなっていく。そこには「津波なんかに負けてたまるか」という意地があった。
「1泊だけ泊まったことのある人から常連さんまで本当にたくさんのお客さんが心配して電話をかけてくれたり、米やお金まで送ってくれたり。商売をやってたからこそ、こういう繋がりがあるんですよね。これも親が残してくれた大きな財産です。」正直、今も父や母のことを思い出すと、涙が止まらなくなることもある。でも、早くお客さんたちにいいところを見せなきゃならないと、里子さんは意気込む。「スタイルは今までと同じというわけにもいかないかもしれない。でも気持ちは一緒です。」奈々美やも 星光館も にこにこ荘もみんな家族経営だった。
里子さんのご両親であり、奈々美や旅館の先代
「私は親を亡くしたけど、今こうやって一緒にやってく人たちは親と同じ世代。もう一度親ができたみたいな感じです。」前みたいに家族で営む家みたいな旅館になったらいい、それが里子さんの理想だ。「実はね、もう予約が入っているんですよ」里子さんは、早く仕事がしたくて仕方がないと言った様子で話す。「自己満足かもしれないけど、お客さんの喜ぶ顔がみたいんです。」サービスは義務ではない、里子さんにとっては自然な行動なのだ。小学生の頃から、父母や周囲の人にも「三代目は里子だな」と言われてきた。幼い少女の時と変わらない人懐っこい表情で、里子さんはただただ来る人の笑顔に会える日を心待ちにしている。
里子さんのお母様の花嫁写真。この日から、佐々木家の一員として旅館を切り盛りする。